ツイッタランドという名の底なし沼
ツイッターは何故やめられないのか?
その謎をあきらかにすべく、我々はアマゾンの奥地へと向かったーーーーーー
どうも。
垢消し期間4日のあいぽんです。
ツイッター全然やめられへん。
なんで?
そんなもの明白である。
他に発言する場がないから。
「ゆーて大学で友人と話せばええやん?」
と考えたそこのあなた。甘い。
私は自称人と話せるコミュ障だが、そこではないのだ。
ではまず私を取り巻く環境を見てみよう。
・一人暮らし
・実家に帰るには1日かけて飛行機、遠い
・友達を家に呼ばない(呼べない部屋という事実もあるが)
・家にテレビがない
暇。
というよりかは、自分が何か行動しなければ家の中の状況が何一つ変化しないということだ。
何もしなければ何も起きない。
何もしようとしなければ何も始まらない。
「何かをしよう」と思いつくための情報が得られない。
一回生の頃は、Facebookやインスタグラム、Netflixで映画見たり音楽流したり。朝からご飯を炊いてしっかり朝ごはん食べてから学校に行く、なんて優雅な日々を過ごしていた。
それでも「無作為に得られる情報」というものがあまりに少ないのだ。
新聞とか買えよとか言われても読書習慣無いし(努力不足)、テレビはうるさいのとゲームができてしまう点から絶対買わないと心に決めてるし、唯一他の世界と繋がると言えばインターネットか実際に外に出ること。
一回生の頃は結構ロードに乗って色んなところ行ってた。
でも土日に誰とも話さないという時間が重なっていくうちに、元来お喋りなあいぽんの精神が崩壊しかけてコミュ障になってしまった。
あれ?人とどう目を合わせればいいんだっけ?いつどのタイミングで挨拶すればいいんだっけ?
知らない人とすれ違う時ってどこ見ればいいんだっけ?
という様な、人生の中で至極どうでも良さそうなことばかり気になってしまい、心が疲弊し、一回生の後半から現在にかけて、大学に不登校気味の奴になってしまっている。
というか、小中高のように毎日同じ人と会って同じような時間を共に過ごす、なんてものが全くなくなってしまい、今まで当たり前だった「誰かと一緒にいること」というのが今では「誰かと会うというイベント」になってしまっている。人と会うことで疲れる。今では家族にも気を遣ってしまうにまで至ってしまった。
用事がなければ外に行かないタイプだった私はもう訳がわかんなくなってしまったのだ。
まぁあいぽんにはそういう背景があるのだが、
それを加味した上で何故私がツイッターを続け、日々の生活を蝕まれているのかというと
どこにも行こうとしなくたって、何してたってツイッターは発言すればいいねとRTで承認してくれるところだ。
日々の生活に疲れた人間、また暇すぎる人間にとってツイッターは最高の場所だ。
疲れた人にとっては現実逃避できる仮想現実的な世界を提供し、
暇な人にとってはフォローしてる人が完璧に自分のタイミングで突拍子もないことばかり呟いてく、色んな人が共存している世界がとても魅力的なのだ。
それも、中の人がちゃんといて、リプすれば現実で普通に会話するのと同じことを味わえる。
いわゆるUXってやつっすよ。VR的な。
ツイッターでだけ会える友達。RTで回ってくる色んな情報は、垢こそ選べど個人が勝手にリツイートする。
ツイッターが提供してくれる世界が何も変化の起こらない一人暮らしの部屋より、とても充実してるように見えてくる。
まぁ、それでも文字を打つだけで話すというアクション自体は起きてないので満足しきれない部分もあるが。
そんな中、社会はまた新たな魔のサービスを生み出した。
ツイキャスだ。
仮想現実で生まれた友人関係がよりリアルなものへと変わる瞬間だ。
かつての私は家に引きこもってはツイキャスをし、家事をしながら会話するということを日常的に行なっていた。
ちなみにわからない人に説明しておくと、ツイッターのアカウントでも登録できて、適当にラジオ放送できるサービスだ。
外なんかに出なくたって、昔私が実家にいた時みたいに誰かと適当に駄弁ることができる。しかも嫌な現実とは別の世界の住人と。
話にまとまりがなくなってきたと思うが、つまり私が言いたいのは、全ては寂しさから来てるということ。
一人暮らし無理です!
でも、一人暮らしで拗らせてしまったせいで誰かと同じ空間にずっと一緒にいるのもつらいです!
限界です!
という。
これwallerが見たら失神するレベルで頭おかしい投稿だろうな。
コメント待ってる。